文芸誌放談

日本の文芸シーンの最先端である文芸誌を追っかけ、格付けし、思ったことなどテキトーに。

「『事の次第』を読んでる」保坂和志(「新潮」2013年5月号)

★★★★☆ 面白い!

面白い、小説じゃないけど。ベケットとの関係をずっと考え続けてる著者ならではの作品だなと思った。保坂のベケットに関する文章を読むと、ベケットの面白さが際立って伝わるからすごい。自分でベケットを読んでるとしばしば見失ってしまうものを、保坂はうまく書いてるなといつも思う。勿論、彼の書いてるものが、俺が読んでかんじる面白さと同じではないけども。

フォークナーは何が起こったか自分はわかってて書いた。カフカベケット小島信夫はそうじゃない。こっちがわからないように向こうもわかっていない、わかっていない困難を書く困難。

つづきは夢が考える。そればかり考えていれば夢は一週間十日は勤勉に同じことのまわりを変奏しながら繰り返すものだ。ベケットなら三カ月でも変奏させたかもしれない。同じことの変奏というのはおかしいか、変奏がすべてで、それを翌朝のおぼつかない記憶で夢を、再現する、というのでなく、夢を見たのと同じ心の運動をする、今度は眠らずに。目を閉じ、何度もあくびしながら耳を澄ます、そのうち眠りが中断していた作業をしに広がる。

毎日読んだが頭に入らない。頭に入っていないことを自覚して先を少しずつ読んだ。ベケットは最初からそうだった。はじめて偶然『モロイ』(三輪秀彦訳)を手に取って読んだとき私はわからないまま喜びに激しく興奮した。私は自分の鼓動や脈拍を聞くようだった、私はそれを聞いてくれる相手がいず長いこと淋しかった、「鼓動」だの「脈拍」だのもっともらしい言い方を思いついたのはついこのあいだのことだ。

ベケットにはもう先がない」と人は言うかもしれない。「べケットは結局おもしろくない」と言うかもしれない。しかし私はおもしろい、ベケットはどの小説も一気に読むなんてことはできない、すぐに飽きに襲われる。というのは気持ちが飽和して受け付けなくなる、それは倦むではない、それはおもしろくないを意味しない、おもしろさは人それぞれなのだから、あなたはあなたのおもしろさに誠実になれ、私は私のおもしろさに誠実になる、自分のおもしろくなさを人が感じたおもしろさをうんぬんする根拠にしないでくれ。

読んでると思う、これは暗記しなければならない。役者ならこれぐらい簡単に暗記する、テキストとは丸暗記するものだ、暗記したものをいったん忘れていつもはじめて読むように空で読むのが理想だ、暗記したって全部覚えていたらつまらない。

 ベケットがなぜあのような小説を書くのかわからなくてもベケットのようには簡単に書けてしまう。それに嵌まるともう帰ってこれないことを小説家となって五年六年しか経っていない私はおそれていたのだった。あの頃は、一つ書き終われば次が書ける確信が私はなかった、次が書けると思うのは次を書き出したときだった、そして書き出してもそれを書ききる確信はなかった、書ききれると思うのは半分を過ぎたあたりだった。
 今はどうかといえば次が書ける確信はない、それはいつまでもないことがわかった。小説家になる前の気持ちに戻って書きたくなるまで待つしかない。書ききる確信は書ききったときまでない。私はようやく確信を持つという不快感から自由になることに成功した。書きたいという気持ちを持たなくなった。ベケットがあのような小説を書いた理由を考える必要がなくなった。そういうことを考えてもベケットは近くにならない。「なぜ」と考えること、書かれたものの意味を考えること、ベケットとはそれをしないための小説だ、言葉に対する能動性の放棄。

こんな感じです。僕の周りには、これを面白いと思うひとがいないんだけど、いてくれたらなと思うことが偶にある。