文芸誌放談

日本の文芸シーンの最先端である文芸誌を追っかけ、格付けし、思ったことなどテキトーに。

「糸」柴崎友香(「新潮」2013年5月号)

★★★☆☆ 面白い!はずなんだけど、ちょっと納得がいかない。ふつう、にしとく。

(あらすじ)ストーカー殺人があった。その向かいのアパートに住んでいた長沼の母が死んだ。あれこれとその後の処理をするうちに、長沼は忘れかけていた「息子」という感覚がすこしずつ体にしみ込んでいく。離婚してずいぶんあっていなかった自分の息子、時生がアパートに押しかけてきて、ちょっとした共同生活がはじまる。
ところで、時生はゲイだ。同じクラスの男子生徒のことが好きで、別れさせようと画策している。その時生は、自分はたぶんストーカー殺人の犯人とすれ違っている、その顔は一生忘れることが出来ないだろう、と考えている。そんなことを考えていたら、道の真ん中に蛙がいて、車に潰されかかったけど大丈夫で、どこかの中年の夫婦が大騒ぎしてて、時生は蛙を触っておけばよかったなと振り返る。

柴崎友香は、たくさんの話題を盛り込むタイプの作家なのだろう。「わたしのいなかった街で」でも、テンポよく話題を盛り込んでいて、読者を飽きさせないよう工夫している。ただ、描写が表層的で、登場人物が深く内省することはあまり無いような気がする。どちらかといえば、行間を読ませたいタイプなのではないか。
ただ、上のあらすじを見ていただいてもわかるが、さまざまなモチーフを書きこむぶん、どこにフォーカスしてほしいのか、どことどこのつながりを発見してほしいのかが分かりにくい。例えば最後の蛙には、著者のどんな思いがこめられているのか、ちょっとわかりにくい。



「おれが生まれたときに生きてた人は、もう半分ぐらい死んだんやろな。もっとか」
武史がつぶやいた。
時生はなんどかぎゅっと瞬きしてから、言った。
「地球の人口はだいぶ増えたよ。倍ぐらい」
テレビはCMになった。ノンアルコールビールを、若い女がぐいぐいと飲んでいた。
「ああ。そうやな」
「おれ、明日の朝、帰るね」
「そうか」(p131)

近親者が死ぬこと、だれかが死ぬこと、蛙が死ぬこと、なにか比較しているような気もするけど、どれも登場人物からは遠く、現実としてうまく掴めない。だからどうした、といったふうで、その感覚もわかるのだ、わかるのだが、なにか奇妙なあとあじがある。