文芸誌放談

日本の文芸シーンの最先端である文芸誌を追っかけ、格付けし、思ったことなどテキトーに。

「ある出立」高村薫(「新潮」2013年5月号)

★☆☆☆☆ ツマラナイ。読み続けるのがちょっとキツイ。

(あらすじ)初老の男性だろうか、旅行のために駅にいる。すこし早く到着したため、古い友人(決して仲の良い間柄ではない)たちはまだ到着していない。ベンチに腰掛け、周囲の人間観察。サラリーマン、家族連れ・・・

主人公が内省していることを独白している形式。読んでいて、ナタリー・サロートを思い出した。この種の文章は、時間に余裕があるときは読めるんだけど、慌ただしい生活のリズムの中で読んでも言葉が自分に入ってこない。今日はそんな感じだった。サロートも、自宅では全然読めなかったのに、ジョードプルからバラナシへの電車のなかでは楽しく読めた。
というわけで、今の自分にはちょっと無理。評価できません。

「糸」柴崎友香(「新潮」2013年5月号)

★★★☆☆ 面白い!はずなんだけど、ちょっと納得がいかない。ふつう、にしとく。

(あらすじ)ストーカー殺人があった。その向かいのアパートに住んでいた長沼の母が死んだ。あれこれとその後の処理をするうちに、長沼は忘れかけていた「息子」という感覚がすこしずつ体にしみ込んでいく。離婚してずいぶんあっていなかった自分の息子、時生がアパートに押しかけてきて、ちょっとした共同生活がはじまる。
ところで、時生はゲイだ。同じクラスの男子生徒のことが好きで、別れさせようと画策している。その時生は、自分はたぶんストーカー殺人の犯人とすれ違っている、その顔は一生忘れることが出来ないだろう、と考えている。そんなことを考えていたら、道の真ん中に蛙がいて、車に潰されかかったけど大丈夫で、どこかの中年の夫婦が大騒ぎしてて、時生は蛙を触っておけばよかったなと振り返る。

柴崎友香は、たくさんの話題を盛り込むタイプの作家なのだろう。「わたしのいなかった街で」でも、テンポよく話題を盛り込んでいて、読者を飽きさせないよう工夫している。ただ、描写が表層的で、登場人物が深く内省することはあまり無いような気がする。どちらかといえば、行間を読ませたいタイプなのではないか。
ただ、上のあらすじを見ていただいてもわかるが、さまざまなモチーフを書きこむぶん、どこにフォーカスしてほしいのか、どことどこのつながりを発見してほしいのかが分かりにくい。例えば最後の蛙には、著者のどんな思いがこめられているのか、ちょっとわかりにくい。



「おれが生まれたときに生きてた人は、もう半分ぐらい死んだんやろな。もっとか」
武史がつぶやいた。
時生はなんどかぎゅっと瞬きしてから、言った。
「地球の人口はだいぶ増えたよ。倍ぐらい」
テレビはCMになった。ノンアルコールビールを、若い女がぐいぐいと飲んでいた。
「ああ。そうやな」
「おれ、明日の朝、帰るね」
「そうか」(p131)

近親者が死ぬこと、だれかが死ぬこと、蛙が死ぬこと、なにか比較しているような気もするけど、どれも登場人物からは遠く、現実としてうまく掴めない。だからどうした、といったふうで、その感覚もわかるのだ、わかるのだが、なにか奇妙なあとあじがある。

「熊」加賀乙彦(「新潮」2013年5月号)

★★★☆☆ ふつう、かな。

(あらすじ)軽井沢の近くで暮らす作家。ある種の文化村的な集まりもかつてあり、恵まれた自然が生活を彩り、日々喜びを享受している。ある日、庭の栗の木に雌熊が登り、実を食べているのを見つける。はじめは怯えたものの、それも豊かな自然のひとつとして受け入れ、観察対象として移ろいを楽しむようになる。詳しい者に聞けば、なにやら冬眠から目覚めるときは子熊をオス・メスそれぞれ1匹ずつ連れてくるはずとのこと。それを楽しみに待っていたが、親熊は射殺され、子熊たちは動物園にひきとられることになったようで、二度と自宅にその熊が訪れることが無かった。

小説としては、淡々としながらも盛り上がりがあり、ふつうに読める。意外と飽きることもない(勿論、著者の生活は裕福なものでありそれがハナにつくこともあったが)。ただ、正直ってこの小説を好きになることはできない。なぜか。

理由は、あまりにも達観しているから。自然を観察対象として見る視線が徹底しており、いわば「自分が愉しむための装置」としての扱いになっている。動物を含め自然界をあそこまで突き放してみるという精神的姿勢に、私は共感することができない。だから、文章を読んでいても、心の奥から湧き上がるような喜びを感じることは、この小説では無かった。

「『事の次第』を読んでる」保坂和志(「新潮」2013年5月号)

★★★★☆ 面白い!

面白い、小説じゃないけど。ベケットとの関係をずっと考え続けてる著者ならではの作品だなと思った。保坂のベケットに関する文章を読むと、ベケットの面白さが際立って伝わるからすごい。自分でベケットを読んでるとしばしば見失ってしまうものを、保坂はうまく書いてるなといつも思う。勿論、彼の書いてるものが、俺が読んでかんじる面白さと同じではないけども。

フォークナーは何が起こったか自分はわかってて書いた。カフカベケット小島信夫はそうじゃない。こっちがわからないように向こうもわかっていない、わかっていない困難を書く困難。

つづきは夢が考える。そればかり考えていれば夢は一週間十日は勤勉に同じことのまわりを変奏しながら繰り返すものだ。ベケットなら三カ月でも変奏させたかもしれない。同じことの変奏というのはおかしいか、変奏がすべてで、それを翌朝のおぼつかない記憶で夢を、再現する、というのでなく、夢を見たのと同じ心の運動をする、今度は眠らずに。目を閉じ、何度もあくびしながら耳を澄ます、そのうち眠りが中断していた作業をしに広がる。

毎日読んだが頭に入らない。頭に入っていないことを自覚して先を少しずつ読んだ。ベケットは最初からそうだった。はじめて偶然『モロイ』(三輪秀彦訳)を手に取って読んだとき私はわからないまま喜びに激しく興奮した。私は自分の鼓動や脈拍を聞くようだった、私はそれを聞いてくれる相手がいず長いこと淋しかった、「鼓動」だの「脈拍」だのもっともらしい言い方を思いついたのはついこのあいだのことだ。

ベケットにはもう先がない」と人は言うかもしれない。「べケットは結局おもしろくない」と言うかもしれない。しかし私はおもしろい、ベケットはどの小説も一気に読むなんてことはできない、すぐに飽きに襲われる。というのは気持ちが飽和して受け付けなくなる、それは倦むではない、それはおもしろくないを意味しない、おもしろさは人それぞれなのだから、あなたはあなたのおもしろさに誠実になれ、私は私のおもしろさに誠実になる、自分のおもしろくなさを人が感じたおもしろさをうんぬんする根拠にしないでくれ。

読んでると思う、これは暗記しなければならない。役者ならこれぐらい簡単に暗記する、テキストとは丸暗記するものだ、暗記したものをいったん忘れていつもはじめて読むように空で読むのが理想だ、暗記したって全部覚えていたらつまらない。

 ベケットがなぜあのような小説を書くのかわからなくてもベケットのようには簡単に書けてしまう。それに嵌まるともう帰ってこれないことを小説家となって五年六年しか経っていない私はおそれていたのだった。あの頃は、一つ書き終われば次が書ける確信が私はなかった、次が書けると思うのは次を書き出したときだった、そして書き出してもそれを書ききる確信はなかった、書ききれると思うのは半分を過ぎたあたりだった。
 今はどうかといえば次が書ける確信はない、それはいつまでもないことがわかった。小説家になる前の気持ちに戻って書きたくなるまで待つしかない。書ききる確信は書ききったときまでない。私はようやく確信を持つという不快感から自由になることに成功した。書きたいという気持ちを持たなくなった。ベケットがあのような小説を書いた理由を考える必要がなくなった。そういうことを考えてもベケットは近くにならない。「なぜ」と考えること、書かれたものの意味を考えること、ベケットとはそれをしないための小説だ、言葉に対する能動性の放棄。

こんな感じです。僕の周りには、これを面白いと思うひとがいないんだけど、いてくれたらなと思うことが偶にある。

「名誉死民」島田雅彦(「新潮」2013年5月号)

★★★☆☆ ふつうです。ちょっと期待してたのだけど。

(あらすじ) 大学院で哲学を学んだヤマダマナブは、スーパーの野菜売り場でアルバイトしている。それ以外はなにもしていない、死んでもいいかと思っている。バイトのあと公園で缶チューハイを2本飲んで酔ったのか、駅のプラットフォームから転落した。21歳の坪田善樹という若者に助けられ、ヤマダは生き残り、ツボタは死ぬ。ヤマダは当初、その事件の記憶が全くない(途中ですこし思い出す)が、償いの方法を探る。ツボタユウコ(母)やツボタユズハ(妹)と話すなかで、ツボタヨシキの代わりに生きるという道を模索する。

なんというか、島田雅彦らしさがイマイチ感じられない作品だった。同号で最終回を迎える「ニッチを探して」はまだ良い(といっても最終回である今回は「やっつけ感」があった。じつは隠し口座に金があるとか、そんな展開は無粋だったのでは?)んだけど、今作は……う~ん。もっとぶっ飛んだ感じが欲しいな、と思う。でも、以前から変わってないのかもしれない、僕にとってはどの作品も「惜しいな勿体ないな」という感じで終わっちゃうのか彼だ。ただし、「彼岸先生」だけは別格。あれは傑作。

閑話休題。もうひとつ気になったのは、公園でマナブがユズハと待ち合わせるシーン。

制服姿のまま公園に現れたユズハは、ブランコに座って待っているマナブを、やや離れたところからじっと観察しながら、ヨシキは自分によく似た人を助けたんだなと思った。(p144)

ここだけユズハの視線から語られているが、違和感がすごくあった。作者の意図が読めない、むしろ編集者の見落としではないかとすら思った。

作品を通じて、マナブがあまりにも無味乾燥すぎて気持ち悪い。これを描きたかったのか?

「うなぎ屋の失踪」角田光代(「新潮」2013年5月号)

★★★☆☆ ふつう。

離婚経験があったり、男女がうまくいかなかったりしながらも一緒にいたり、こういうハナシを深く読み取れる方々もいらっしゃるのだろう、俺にはわからないだけで。
とくに技巧をこらした文章というわけでもなく、構成が凝っているわけでもなく、すっと読んで終わり、みたいな印象でした。

「ショッピングモールで過ごせなかった休日」(「新潮」2013年5月号)

★☆☆☆☆ ツマラナイ。
切れ味で勝負するヒトなのかな、ちょっと前に発表されてた戯曲も読んでないからわからないけど。この作品は思い付きで書いただけなんじゃないか、という印象しかない。終わらせかたも、好みではないな。